タテイト×ヨコイト

近代~現代の歴史について思いついたことを書いています。

桜田門外の変 その後

6月3日の「西郷どん」は
西郷に、薩摩から帰藩命令が出て奄美大島を発つところまででした。
奄美大島を出発したのは、1862年文久2年)の1月頃だったそうです。

 

1860年桜田門外の変にて
井伊直弼が暗殺された後、江戸幕府は朝廷へ接近していきます。

新たに老中となった安藤信正は、
朝廷(公)と幕府(武)が協調して公武合体を進め
再び幕府に権威を取り戻そうとします。

 

幕府は、孝明天皇の妹の和宮を将軍家茂の妻へと迎えました。
しかし、既に有栖川宮熾仁親王との結婚が決まっていたにも関わらず
和宮を降嫁させた強引な政略結婚に、尊王攘夷派が怒ります。

 

安藤は1862年文久2年)に江戸城の坂下門外で
水戸藩を脱藩した浪士に襲われ、その後失脚します。
坂下門外の変

 

桜田門外の変の後から、こうした暗殺(未遂)事件が横行し始めますが

幕府の力が弱まりと共に尊王攘夷の勢いが強まり

手の付けられない流れが生まれてきたのだと思います。

井伊大老と桜田門外の変

5月27日の西郷どんでは

吉之助が奄美大島での愛加那との生活を

満喫しているようでしたね。

 

一方、薩摩では島津斉興が亡くなり、
久光が藩の権力を握ります。
そんな久光に正助(大久保利通)が接近します。

 
 

さらに、江戸では1860年3月に桜田門外の変が起きます。
大老井伊直弼水戸藩を脱藩した浪士達に
桜田門外で襲われて暗殺されます。

明治にかけて主要人物を暗殺される事件が相次ぎますが
この桜田門外の変が始まりのように思います。


井伊直弼といえば、13代将軍徳川家定の跡継ぎを巡って争われた
将軍継嗣問題によって頭角を現してきました。

一橋慶喜を推す越前藩主松平慶永薩摩藩島津斉彬に対して
徳川慶福(後の家茂)を推していました。

京で、島津斉彬の命をうけた西郷吉之助や橋本佐内が
一橋慶喜を将軍に据える朝廷工作をして成功しかけたのに
それをひっくり返して、慶福を将軍の跡継ぎにしてしまいました。

家定の死後には大老に就任し
天皇の勅許を得ないままにアメリカと日米修好通商条約に調印して
孝明天皇の怒りを招きます。

さらには、一橋慶喜を将軍に推した一橋派を弾圧(安政の大獄)し
橋本佐内や吉田松陰らを処刑します。

こうした専制的な政治に対する怒りが蓄積していき
桜田門外の変へとつながっていったのでしょう。

この事件が幕府の権威を大きく弱めるきっかけになったのだと思います。

1867年の大政奉還の7年前の出来事です。